富山県山岳救助隊のドキュメンタリー
昨年、テレビで放映された富山県山岳警備隊の活動ドキュメンタリー、「遭難の実態と救助の模様」の映像貸し出しをインフォメーションしました。愛知県山岳連盟の今年度の「遭難を考える」講演会は富山県警山岳警備隊の隊長の椙田正さんをお迎えしての勉強会でした。終了後に、本官おっしゃるには、「イベントドキュメンタリーでは人の概念も75日で、印象が薄らいでいくんだよなぁ〜、鈴木さんどんどん映像お店でも流して、貸し出し続けてよな!」ということで、「ハイ」とお答えしておきました。先月、あることでご一緒させていただいた機会では、「鈴木さん、あのドキュメンタリーさあ、お店の中は不味いはなあ、あんなの見てたらお客さんが山へ行かなくなっちゃうからなあ」とわざわざ訂正をされていました。でも、僕は本官の意志を受け継いで録画も、「VHS」・「DVD」両方を用意しました。継続して貸し出ししています。希望者のみなさんはメールで鈴木まで。
昨年はいろいろな方面から貸し出しの依頼を受けました。最も遠いところでは山口県下関市のMさんからでした。先日久しぶりにメールを頂いて上司の方がクライマーのようで、そのホームページを紹介していただきました。僕達のエリアからでは中々遠くて、体験できないところでの活動を紹介されています。で、リンクの許可を頂いたのでパソコン上で遊んでください。あっ!機会をつくって出かけましょうでした。

2006年10月18日(木)
チョー・オ・ユー
ネパールとチベットの国境に標高8201m、世界で6番目の高峰、チョー・オ・ユー峰があります。現在では8000m高峰登山の超人気ピークとして世界中から登山者が集まってきてるようです。うちの顧客のひとり渡辺直子ちゃんが(ちゃん付けは失礼かもしれませんが、僕の子供と同い年なので、つい!)、この秋に挑んでいて、昨日、「帰ってきました〜、登りましたよ〜」と報告に。「当たり前だろ!どれだけトレーニングや高所登山タクティクスの勉強に時間割いてやったと思ってんだ!」と返したかったけど、素直にうれしくて、まずは「おめでとう」の握手・・・・。さっそく、写真を見せてもらいました。びっくり仰天はキャンプ2(実質的ベースキャンプになるのかな?)のテントの多いこと!30張り以上、「え〜!、こんなに登山者がいるの?これ5月の涸沢といっしょじゃん!」でも、彼女にとっては、時代的に「こんなもの」体験だったのでしょうね。彼女たちのサーダー(クライミングガイド)、ロールワリン、べディン村出身のパサン・ツェリンさん。1994年に僕とエヴェレストの山頂に立ったシェルパさんで、懐かしんでくれたようでした。さて彼女、長崎大学水産学部を卒業したものの、看護師の道に進みたいようで、また看護学校の学生、指導先生から、低酸素環境下での循環器データーを採ってきて論文を書くように言われてるみたいです。「な〜るほど!」と頷ける論文期待しましょう。
P.S 
4人のメンバーだったようですが、写真で僕が見る限り、順応もしっかりしてるな(顔などに浮腫み等が全くなし)!と感じたのは彼女一人でした。帰国した体重変化もわずか3kg減の変化。ダメージを受けた人は10kg(あるいはそれ以上かも?)くらい減少しますからね。すごい体力!
橋本龍太郎先生
僕と橋本先生の出会いは、1976年第34回総選挙。選挙事務所の雑用などのお手伝いを約1ヶ月間させていただいた時です。19歳の少年小僧の僕にも、事務所で毎日のように声をかけてくださって、僕の人生の中の最も有意義な時間として残っています。岡山4区、同党からは大先輩の加藤六月さん。社会党からは江田三郎さんらが出馬されている激戦区でした。年の瀬もせまる12月5日最後の最後で当選が決まった苦戦選挙でした。1988年日本・中国・ネパール3国合同エヴェレスト登山隊が派遣されました。僕もその一隊員でした。5月5日子供の日に世界最高峰から映像を送ろうという企画のもとに、中村進さんが見事に頂上からの映像を子供たちに流してくれました。橋本先生はその登山隊の総指揮を務められ、僕たちネパール側のベースキャンプにも励ましに訪れられた時のことです。飛んできたヘリコプターのエンジントラブルが発覚し、ヘリで帰る事ができなくなりました。代わりのヘリといっても5300mのベースキャンプまで飛んでこれるようなものが当時は何機もありません。アーミーのヘリだとぺリチェ(途中の部落)までは飛んでこれるとのことで、ぺリチェまで歩いて帰ることになり、僕は同行しました。2日行程のキャラバンを、真っ暗になっても歩き続けられた強健な体力でした。「鈴木君よ、タバコくらいゆっくり吸わせてくれよ!」。「いや!先生。ぺリチェまでは辛抱してください!」何度こんな会話を繰り返したでしょう。真っ暗になってから着いたトゥクラのカルカ(放牧のための移動民家)で、ヤクに乗ってもらったときには、「俺は歩くよ!あんなケツが痛くなるようなのに乗るのはまっぴらごめんだよ!」。「先生暗くなった凸凹の下りは足の負担が大き過ぎます。ケツの痛いくらいは辛抱してください!」月明かりにヤクを引きながらキャラバンを続け、10時近くになってぺリチェに着いた時には「先生お疲れ様でした。辛抱ばかりさせて申し訳ありません。一緒に思いっきりタバコ吸いましょう」と涙したことを、想い出しました。ご冥福をお祈りいたします。
6月に入った頃でしょうか、お腹の不調を訴えられて、入院をされたと伺って、わずか4週間、7月1日富士山でまさか!の訃報を知りました。敗血症性ショックによる多臓器不全という難病だったようです。ご遺体がご本人の意志で検体されたことで、8月8日に日本武道館にて内閣・自民党合同葬が行われ、参列させていただきました。合唱!
富士山
ある中学校が総合教育の一環として富士山登山を行っています。その事前学習として50分の講義をしています。子供たちから、「街の中の生活環境と富士山の環境の違いはどんなところにあると思う?正解とかじゃなくて、想像を話してみて!」と聞いて周ると面白い現実的想像が出てきます。例えば「電線がない」とか・・・。登山としての講義なら、「何を言ってるんだ当たり前だろ!」なのですが、山の環境に入ったことのない、子供たちの単純な想像は、新鮮な発想として微笑ましくなります。で、「低酸素と登山活動」・「高度と風・気温」・「登山活動と水分補給」というタイトルで、教材というほどではありませんが、文章テキストを作っています。でも、最近の子供たちには文字だけじゃなあ?と、高度計とパルスオキシメーターをもって実際の環境・データー写真を撮りに出かけました。が、梅雨の真っ只中、隙間チャンスを狙ったのですが、南から湿った空気を風が運び、瞬間最大風速30m、運んだ風が落ち着くと、今度は豪雨で、教材つくりどころではありませんでした。でもいい発見が、土曜日に泊まった吉田口登山道の5合目付近にある(佐藤小屋のすぐ上部)里見平の星観荘は食事もおいしくて、快適できれいな小屋でした。おすすめです(昨日は僕たち3人だけでした。もったいな〜)。
最近、スポーツタイツにジョキングシューズ、ランニング用ウィンドブレーカー、ハイドレーションパック。という軽装登山者?(ランナー)が増えてきように感じます。昨日も頂上小屋の中で、「ガタガタ」震えてみえました。「ガタガタ」震えが止まらないというのは、低体温床のレベルではどの辺りでしょうかね?5合目から往復最大4時間以内なら軽装でも、ライト&ファーストの意図でしょうが、昨日のような環境で、分岐点(環境と身体)を理解しているのでしょうかね?生と死の分岐点は、極限の登山にだけ存在するわけではないように思えます。山開きから3週間過ぎた7月21日現在、山梨県側の吉田口登山道で、すでに4名の死亡事故が報告されています。「誰でも登れますよ〜」ってキャチフレーズ、4名の死亡者!が出てる環境で説得力ないですよね!

講義中のすーさん。店での本人とは別人の二重人格だそうです

6合目付近では御来光まで見ることができました。が、8合目付近まで上がってくると、ポツリ・ポツリ。その後は風も強まり、頂上では豪雨。下山しきった頃は雷まで。「山の天気はわかりませんよ!」ってことですが、この日は予測どおりでした。

2006年7月20日(木)
チョモランマ(エヴェレスト山)変貌
というタイトルで2006年8月号の「山と渓谷」に山岳ジャーナリストの池田常道氏、江本嘉伸氏が総評を書かれています。史上最高登頂者数を出した、2006年プレシーズンでしたが、反面遭難死者数も最高15名?という不名誉なシーズンだったそうです。過日の登山医学シンポジウムでも、池田氏はその詳しい現状と分析を講演されていました。内容は「山と渓谷」8月号を読んでいただくとして。実は僕も1994年に頂上に立っています。南側(ネパール側)からの登頂でしたが、今のような合理科学的高所登山ではなく、5300mのベースキャンプに入山するのも約1ヶ月、実質登山活動約50日、日本を出てから帰るまで約3ヶ月も費やしていました。毎日、高い所へ上がっては、降りてきて休み、ルートを作っては荷上げをし、補修を繰り返し、尺取虫のように世界最高峰にたどり着きました。当時(この年だけでしたが)ネパール政府(観光省)は自然保護(エヴェレスト山のゴミ問題)を取り上げ、入山規制を強いてきました。その内容は、「1ルートにつき、1チームしか許可を与えません」。「1チームの隊員は5名とする、但し、どうしてもの場合は追加料金を払った上で、2名までの追加は認める」。といったことでした。ネパール側には、登攀ルートとして、通常ノーマルルートといわれている1.東南稜、バリエーションルートとして、2.南西壁、3.西稜、4.南稜(サウスピラー)の4ルートがあります。僕たちは、その4.南稜からの登頂を試みました。各ルート1チーム、最大7名の人間しか許可がでませんから、最大でも28名しか入山できなかったわけです。現状の報告書を読んでいると、当時は信じられないような静かなエヴェレスト山登山だったのだなあ。と、当時のネパール観光省に感謝をしなければいけないのかもしれません。その中で、最も早くに入山した僕たちは、複雑なアイスフォールに、広大なウエスタンクームにたった5人だけの登山でした(あっ、シェルパさんたちを忘れていましたが、彼等は、自国の庭先ですから別格あつかいにしましょう)。僕たちが、第2キャンプまで進んだ頃でしょうか、3チームがベースキャンプに入ってきました。その中の1つが、ガイド公募登山を企画運営しているアドベンチャーガイズ社、有名なニュージーランドの登山家、ロブ・ホールさんのチームでした。この3チームそれぞれひとつづつ許可の下りているルートに分かれて取り付くのかなあと思いきや、すべてノーマルルート東南稜。ネパール政府の規制もいい加減なものです(ただ人数だけは守られていました)。このロブ・ホールさん、1996年、同時期にクライアントとともに登頂は果たすものの、下山時、悪天に見舞われ、南峰直下で帰らぬ人となりました。日本人女性、難波康子さんも登頂後犠牲になられ、ニュースでも大きく取り上げられたエヴェレスト大量遭難の年です。10年の歳月は酸素ボンベの機能・装備の品質は大幅に向上し、それをもとに合理的高所登山のタクティクスも生まれてきています。その向上に伴って、人間はどうか?というと科学のようには進歩しないのではないでしょうか?だって、生き物ですものねえ。酸素分圧3分の1の高度8000m以上で、衰退が現れて、いくら毎分3リットルから4リットルの純酸素を与えても、生き物の基礎代謝は復活しますかねえ?。登山技術ばかりではなく、自然環境である低酸素ゾーンの生体の分岐点を理解した上での行為こそ、「自己責任」といえるのではないでしょうか。あっ!自然界の違いこそあるものの、日本の富士登山も同様なことが言えるかもしれません。

2006年5月
登山医学会
毎年、5月末に登山医学シンポジウムが開催されています。文科省登山研修所の研修会にドクターとしてお世話になっている増山先生から、是非参加してください。とお誘いをいただいて、今年から参加させていただきました。日本登山医学会は25年の歴史を持つ日本を代表する唯一の登山医学の専門家の団体で、国内のハイキングや登山、山スキーやクライミング、高地を訪れる海外旅行、ヒマラヤトレッキングや本格的高所登山などから起こる、急性高山病・高地肺水腫・高地脳浮腫といった低圧低酸素によって生じる障害、低体温症や凍傷といった寒冷による障害、紫外線や宇宙線による障害など、登山や高所で起こるあらゆる障害を、医師や生理学研究者ばかりではなく、登山や高所での健康にかかわるすべての職業の方が参加してあらゆる障害に対処できるように研鑽しています。飛行機の長時間搭乗から起きているエコノミー症候群(正式には深部静脈血栓症と呼ぶそうです)も共通因子と着眼され航空医学として研究されています。2日間の研究会はとても勉強になりました。『登山環境』と『人間のからだ』の関係が、一般の登山者のみなさんにも理解されると、もっと、もっと快適登山が完成されると思います。今年も研修会でお世話になった増山先生、志賀先生にそのむねを話したところ、是非鈴木さんのページにリンクしてネットワークを広げてください。とのことでした。専門用語がたくさん使われていてむずかしいかもしれませんが、僕が解説できる範囲でしたらお手伝いさせていただきます。ということでみなさん見て下さい。こちら! 医学会の先生方で作り上げられた『山の救急医療ハンドブック』(山と渓谷社)も発売されています。こちらも是非!
高所順応の考察 2005年6月

友人の竹内洋岳君がシシャパンマ南西壁を無酸素アルパインスタイルで登って、その後チョモランマ無酸素アルパインスタイルで挑戦をしていましたが、7700m付近で急性高所障害?で倒れてしまったようです(脳浮腫?)。看護師の資格のあるドイツ人パートナーによって、必死の処置が行われ運よく生命の危機は逃れました。本人曰く「竹内は死にそうになったのではなく、死にました。そしてもう一度生まれ直しました。新たの誕生日パーティもして・・・」などと勝手のいいことを言っているようです。もうひとりの友人の加藤慶信君は同時期にアルパインスタイルではありませんが、無酸素登頂を果たしました。日本人の中国側からのチョモランマ無酸素登頂は山田昇さん以来の快挙です。実はこんなスーパー・アスリート・アルピニストの順応のことではなく、このニュースが入った頃ちょうど文部科学省の大学生のリーダー研修会で剣岳に入山していて、初日に剣沢(標高約2500m)で3名の体調不良を訴えた研修生がいました。症状は3名とも頭痛・嘔吐でともにパルスオキシメーターで数値を測ってみると75〜80%平均、心拍100〜120拍/分平均でした。頻繁にこの高度に入山している元気な講師は92〜95%平均、心拍60〜70拍/分平均です。元気な講師のデーターが標準とすると3名の研修生のデーターは立派な急性低酸素障害で注意信号です。入山のスタート地点の室堂(標高約2500m)では30分〜1時間くらいの滞在時間をとってから雷鳥沢から別山乗越、剣沢と行程で歩行時間約5時間(途中で読図などの研修しながら)。剣沢に入って約1時間半後の出来事でした。偶然かもしれませんが3名とも剣沢までの行動時間中に(入山してから症状がでるまでも含めて)水分は1リットル未満しか摂取していません。水分は酸素運搬をする血液の流通循環に大きな役割を果たします。脱水が循環機能を低下させ高度順応の妨げになることを忘れてはいけませんね。「何リットルは摂取しなさい」という具体例を出す指導も大切です。ちょっと参考までに僕が約1ヶ月ぶりに剣沢に入山した時と、ほぼ毎週剣沢じゃないにしろ標高2500m以上で行動していて剣沢に入山した時のパルスオキシメーターのデーターを比較してみました。

パルスオキシメーターは動脈血酸素飽和度を測る計器で光を当ててその浸透率を表示しています。酸素飽和度の高い血液は鮮やかな赤色をしていて光の透過率が良く高い数値が出るという理屈です。行動内容・時間はどちらもほぼ同様です。
    計測条件/計測場所    室堂 剣沢(起床時) 剣沢(就寝時)
1.約1ヶ月ぶり入山 1日目 89% 68拍/分     ━ 91% 65拍/分
2.毎週入山 1日目           94% 68拍/分     ━ 94% 62拍/分
1.約1ヶ月ぶり入山 2日目     ━ 85% 43拍/分 93% 62拍/分
2.毎週入山 2日目     ━ 89% 43拍/分 94% 55拍/分
1.約1ヶ月ぶり入山 4日目     ━ 89% 45拍/分 94% 56拍/分
2.毎週入山 4日目     ━ 90% 43拍/分 95% 53拍/分
3.日常生活     ━ 95% 40拍/分
   (起床時)
98% 53拍/分
   
(平常時)

久しぶりに入山するのと、毎週入山しているのとでは、室堂でのデーターと、その日の剣沢の就寝時、翌朝の起床時に大きな違いが表れています。最終日の4日目ではほとんど差がありません。この標高では高度による(低圧・低酸素)衰退は考えにくいので、滞在日数が長くなれば順応していくということです。仮にこの先何日もこの高さで滞在したとしても飽和度は平地と同様にはならないと思いますが、心拍は平地と同様くらいにはなるかもしれません。クライミングのプロテクションも最初が大事なように、標高の高いところへの移動も最初が大事です。2000m以上の標高に交通機関等で短時間で到着した場合、いきなり動きだすのではなく、ゆっくり動き出すこと!忘れないでください。初心者や久しぶりに入山する人を連れているリーダーの人は特にね!

愛知県山岳連盟「遭難を考える」講演会
2005年11月30日、長年富士山頂の観測所に勤務された海野幸夫さんを迎えて、富士山の気象・遭難例の経験談を聞きました。ユニークで楽しい話でした。ご承知の事が多いかもしれませんが、すーさん的にまとめてみます。富士山の積雪量は、本州の南岸沿いを低気圧が通過することの多い4月の下旬にかけてが最も多く、冬型の気圧配置が続くことによって降雪積雪となる北アルプスの高山とはズレがあるようです。今までの最高積雪量は1989年4月25日に記録した336cmです。気温は、最低気温の記録が氷点下38℃(2月だったかな?)、最高気温は17.8℃(8月)で日常平地レベルがそのまま3776mに推移していると想像できます。富士山の恐怖は、この雪や気温ではなく「風」で、冬に典型的な北西の風はさほどの怖さではなく、下界の天気予報で春の嵐と報道されているころの南東よりの風が要注意だそうです。記録では最大瞬間風速80m/Sとグラフでは出ていました。どんな体感なんでしょうね。現在は観測所がなくなって富士山の実態風の情報を得ることができませんが、河口湖のウィンドプロファイラーで上空4000m付近のデーターを見ることができます。さて富士山の遭難例ですが、圧倒的に滑落(人的行為)が多く、意外に雪崩による遭難例は少ないようです。積雪期に入山する登山人口が減少してきて、雪崩は起こっていてもそこに人間がいなかったというのも起因しているのでしょう。記録的な雪崩事故は1972年3月20日に24名の命を奪った火山岩の土石まで巻き込んだスラッシュ?雪崩でした。それに対して落石事故は意外に多く、冬季は風によって飛んでくる比較的小さな落石、春の融雪よって落ちてくる大きな落石それぞれ犠牲者を出しています(死亡例が雪崩事故のようにまとまってではないので印象に残りませんが)。どちらも雪面を音を立てずに落ちてくることが脅威です。観測所の職員の方々は3週間交代勤務で、もちろん交代時には自分の足で登下降をされるわけですが、行動を起こす自然環境の基準として、風速20m/S未満であること、気温は氷点下30℃未満の好天時とされています。「自分たちは体力にはそこそこ自信があっても、技がありませんから、技を上回る環境では行動が出来ませんので」と謙遜されていましたが、何々、同じ人類ですから、技が自然現象の脅威を上回るなんて・・・・。というより、我々登山者は自分たちの登山に都合のいいような予測(願望のはいった)をしてしまいがちなのに対して、毎日のように自然環境を観察されている海野さんたちの判断は、客観的で正しいと思いました。その職員の方々も、1990年12月2日にあわやという経験をされました。この年は11月30日に、紀伊半島に台風が上陸するという異例的状況で、台風の勢力が衰えた2日後に行動を起こされたのですが、予測以上に風速が治まらず、普段30分で移動できるところが4時間かかり生死の限界という経験をされたそうです。やはり犯人は「風」でした。
富山県警山岳警備隊の映像
2005年、9月17日(土)の19:00からテレビ朝日で「極限の救助・北アルプス山岳警備隊・標高3000mで見た生死のドラマ」で富山県山岳警備隊の活躍が放映されました。中高年登山ブームから起こった登山事故の救助搬送の模様をドキュメンタリータッチで描いています。文部科学省登山研修所の研修会にも講師として来ていただいている、常駐隊員の上田さん、柳沢さん。横山さん、園川さんらの現場での活躍、警備隊長椙田さんの指揮力も見事です。その中には8月上旬の高校高専の研修会時に前剣大岩付近で起きた転落事故の搬送模様も放映され、現場に居合わせた(研修会の講師として)うちの桜井も搬送救助で活躍?しています。(事故発見者は研修会講師の熊崎指導員で、事故者は頭部を40針縫う裂傷、肋骨を2箇所骨折という重傷でした)。この番組、録画をして保存しています。見る機会がなかった方で希望者の方はビデオ貸し出ししますので遠慮なく。山で事故を起こさない教訓(堅苦しかったかな)のためにも是非ご覧になってください。
剣沢小屋
文部科学省登山研修所の研修会では、剣沢に前進基地があるものの、水場やいろいろ生活面において剣沢小屋にお世話になっています。ご主人は山岳ガイドの佐伯友邦さん。誠実な人柄の如く、お客さんを友邦さんご自身が受付で送迎されていらっしゃいます(アルバイトが受付している山小屋多いですもんね)。また剣沢の雪渓が日々変化するためパトロールも怠らず、危険箇所とならば自ら整備して、登山者に注意箇所を手書きの地図をコピーしてアドバイスされています(現在、仙人方面は真砂沢ロッジの下三ノ沢合流地点の崩落が烈しいため注意が必要なようです)。ご子息の新平君や奥様の里子さんは「お客さんに気持ちよく過ごしていってほしいから」をモットーにどんなに忙しい時でもお客さんのもとに出来立ての暖かい料理が順番に運ばれます。「太っちゃうんじゃない?」というほど満腹って感じです。剣岳の登山に行かなくても小屋から眺めるだけでも価値ある環境です。研修会最後の日はこの夏の一番日という好天で、小屋の前でしばらく剣岳を眺め、見とれているほどでした。新平君に「鈴木さんホームページ見てるよ。野球のことばかり書いてないで、うちの宣伝も書いてよ!」って、だから書いたのではありませんよ。ほんとうに快適な日本アルプスを代表する山小屋です。
日山協海外遭難対策研究会 その2
「地方岳人のヒマラヤ挑戦」というテーマのパネルディスカッションの報告を少々、富山岳連が活動されていた1980年代から90年代の体験報告でしたが、「あっぱれ!これぞ強さ!」を感じました。簡単ですがこれもスーさん流にまとめました。
*まとめ
 1983年の富山岳連のナンガ・パルパット(デアミール壁)日本人初登攀は快挙でした。谷口守さんは「時代・時期的な運の良さですよ」と報告されましたが、中西紀夫さんは前日に北の肩?から悪天を突いて頂上に向かい、どこが頂上かわからないまま肩に戻り、天候が回復した翌日谷口守さんと再び頂上へ向かいました。前日のアイゼンのトレースを辿ってみると中西さんは頂上に達していたらしいです。2日間続けて8000m峰の頂上に2回登頂した強さの証しです。その後5年に1度の割合でヒマラヤに登山隊を派遣し、1988年にはブロード・ピークに谷口守さん、斉藤順二さんの2名が登頂。1994年にはガッシャーブルムT峰に当時未踏の北壁を狙うも時間切れでルートを変更、通常ルートより谷口守さん、稲葉英樹さん、佐伯成司さんの3名が登頂を果たしました。地方の山岳団体の情熱と闘志、そして日本アルプスで最も厳しい積雪期の剣岳をホームにした日常山行で身についた強さが生んだ成果でしょう。
 凍傷の報告ですが、1985年明治大学炉辺会でチョー・オユーを目指した中西紀夫さんは三谷統一郎さん、北村貢さんの3名と登頂後、疲労が激しく下降に時間がかかり暗闇になりました。フラフラ下降する中西さんを見かねた三谷さんは8000mで余儀なくビバークを決断しました。結果的に凍傷で北村さんは足の指1本を、中西さんは足の指10本全部失うことになりました。当時を振り返った中西さんは足の感覚は痛いとか自覚症状はほとんどなく、ABCに降りてきて、もしかしてと思い靴下を脱いだら大変なことになっていることに気づいたそうです。履いていたオーバーシューズを脱ぎ、お尻に敷き、靴紐を緩めるわけでもなく履いたまま状態でのビバークでした。オーバーシューズも脱がず、靴紐を緩めて、血流と保温に少しでも気を配ったら失うまでには至らなかったのではないか?も結果論的想像ですが、中西さんは、同じ状況下で一番元気な三谷さんは何ともなかったのですから、高所の低酸素の影響でバテていた自分だけが全部の指を失ったということは、寒さの影響より低酸素によって血液循環が指先まで回っていなかった要因が大きいとして、もう少し高度を下げて7500mあるいはそれ以下でのビバークなら結果がちがったのではないか?と報告されていました。
中西さんとチョー・オユーに一緒だった北村貢君とは1988年日・中・ネ三国合同エヴェレスト登山隊で供にしました、強かったですよ。もう17年も前のこととなりましたけど。
日山協海外遭難対策研究会
2005年、6月18日(土)・19日(日)で立山の麓、芦峅にある国立立山青年の家で日山協海外遭難対策研究会が行われました。朝8時15分に自宅を出て東海北陸道を使って飛騨清美へ、そして飛騨古川への近道を使い、国道41号線を富山に、市内に入った大沢野町下大久保から県道35線を大山町へ、常願時川を右岸に渡り上流に向かって上って行くと国立公園立山に着きます。名古屋からはこの道が一番最短時間で着きましょう。僕の所要時間は内緒にしておきます(飛ばしてるわけではありません。休憩をしないので、それなりに早いのです)!開催時間まで余裕があったので、芦峅のPiste(ピステ)さんに寄って昼食を(1時間半も居候してしまいました)、家庭的な雰囲気のいいお店です。立山・剣方面に車でアクセスされた時には立ち寄ってみてください。お茶タイムもOK!です(マスターの青木満さん奥様には登山研修所の研修会の食事にお世話になっています)。さて研究会は立山カルデラ砂防博物館の飯田肇先生が「ヒマラヤの氷河と立山の雪」というテーマで講演をされました。不十分かもしれませんが、すーさん的まとめをご覧ください。
*まとめ
 最近(2000年以後)の立山の冬の特徴も一般的に言われている暖冬の傾向で「ときどき雪国・たまに大雪」です。具体的に温暖化の現象はどのように現れているかというと雪になるか雨になるかの接点温度の地上温2℃の標高ラインが上がっていて以前は標高500mラインだったのが現在は1500mライン平均です。従って1500m以上の高さでの積雪は平均並みですが、それ以下の積雪が少ないといった傾向です。降雪の仕方にも違いが現れていて低気圧の通過による降雪が多く、冬型の気圧配置による降雪が少なく、室堂で深さ約10mのトレンチ(大きな溝)を掘削してみると積層の中に氷化した層やザラメの層がいくつも検出されました。これは低気圧の通過に伴って湿った暖かい空気が雨や霙になりその後冷やされた層で雪崩や崩落を起こす弱層の典型です。冬型の気圧配置によって積もる雪はしまり雪となるため真っ白な綺麗な層になります。1月から3月までの月ごとの晴天日日数を平均比較してみると以前は晴天日が月3日に対して現在は10日にも及んでいます。しばらくの間、降雪積雪がない状態が続き、雪面が霜ザラメ状態になった上に一気に積雪することから雪崩は面発生が多くなっています。ヒマラヤの氷河も同様に温暖化が進んでいて地上温0℃のラインが1980年代は4300m付近だったのが現在は5300m付近まで上がっているようで、氷河の融解現象が各エリアで見られています。特にロールワリン最奥の氷河湖ツォー・ロンパの水量がどんどん増え決壊の危機に至っています。エヴェレスト街道のチュクン上部のイムジャ氷河の氷河湖も同様ですし、アマダブラムのミンボー氷河に至っても氷河自体の傾斜、規模にも減少の傾向が見られます。氷河の崩壊現象の激しい時期に登山をしているわけですから大きなセラックの崩壊に伴った雪崩、氷河流動によってのクレバスの発達に以前より注意が必要ですと報告がありました。
この後「地方岳人のヒマラヤ挑戦」というテーマでパネルディスカッションがありましたが、そのまとめは次回機会を設けて・・・。
愛知県山岳連盟 「遭難を考える」講演会
2004年11月30日に岳連の遭難を考える会の講演会が行われました。今年の講師は外部からではなく、理事長の北村憲彦氏が今年の2月に福井県の大長山で起きた関西学院大学ワンダーフォーゲル部の遭難事故原因を分析しながらの「講義」でした。悪かった点、良かった点(遭難して良かった点なんておかしなものですが、死亡者がでなかったということで)をわかりやすく分析された講義でした。うまかったですよ!彼曰く、「年齢とともに口だけは達者になる」とのことです。経験からの口達者ですからね、利用価値大ですよ。聞たことのない各山岳会、同好会チームは講師依頼してみてはどうでしょう。さて関学のこのチームほんとによく生還しましたよ!状況判断の甘さ、ミスは運に助けられた部分はあったにせよ、時間積雪20〜30cmに近い環境でテントを潰され、深夜に2時間で13人が収容できる、3つの雪洞を作り上げたのは見事です。低体温床を最低限に防げた最大の要因と言えるでしょう。それもチーム6本のショベルを2本失って、4本で・・・!登山技術は経験不足で未熟?かもしれませんが、、雪山生活ではかなり訓練を積んでいる証しでしょう。積雪期にフィールドに入る登山者は、登山技術ばかりではなく、悪天で沈殿の日なんかに、雪洞の早堀競争、快適雪洞作り競争なんていうのが、実際の危急時に役立つのかもしれません。最後に積雪期の入山者のみなさん、ショベルは「個人装備」にしてくださいね。それも軽量コンパクトという、なんちゃってショベルでは役立ちませんよ!仮にもし雪崩に埋まって、ビーコンでいち早く埋没者の位地に辿りつけても、パワーのないショベル、雪堀経験をつんでない人間では、掘り出すのに時間がかかってしまい、悔いの残る結果になるのかもしれません。受講者70人くらいでしたかね、無料の公開講座だけにもっとたくさんの人に聞いてほしかったなあ。
K2エピソード 追伸
K2、ブロードピークともに8月8日に登頂に成功しました。K2隊は第2次アタック隊を送りだしていました。僕たちは1次隊だけで登山を終え、ベースキャンプ撤収を始めようとしているとき、1人のパキスタン人が降りてきました。話を聞くと、K2隊のメールランナー(手紙やメッセージを運ぶ人負)だといいます。彼の仕事はK2隊の帰路のポーターをまずアスコーレ村で集め、ベースキャンプに送ることです。大量に必要なK2隊のポーターを先に確保されたら、僕たちは帰れなくなります。そこで僕たちはこのメールランナーをなんとか1日僕たちのベースキャンプで引き止めることに成功し、翌日から、先発隊を組んで彼と一緒に帰路のキャラバンをすることにしました。抜きつ抜かれつでアスコーレ村に着き、ポーターの一部確保!「やれやれ」。あとはまたシガール村で・・・。K2登山隊のみなさんズルして申し訳ありませんでした。でもとっくに時効ですよね。
さて、このヒューマンライフK2登山隊のドキュメンタリー映画『白き氷河の果てに』が海工房よりDVD化されました。当時の映像制作は北斗プロダクション、門田龍太郎さんが中心となって創られました。門田さんは1996年だったかな?不慮の病で逝去されていまいましたが、弟さんが意志を引き継がれました。
K2エピソード 最終回
8月に入って間もなく、K2隊は第1次アタックメンバーの発表がありました。確か、馬場口隆一氏、寺西洋治氏、小林利明氏、宇津孝男氏とパキスタンのナジール・ザビル氏の5名だったと思います。ベースキャンプの新貝隊長からの発表に、森田勝氏は隊長からの交信には出ず、無言の抵抗をされ登山活動の放棄を決断され、1人で下山されようとしていました。そしてそのことを73年RCCUエヴェレスト南西壁隊のときからの親友だった、僕たちブロード・ピーク隊の隊長、湯浅先生と泣きながら交信されました。登山隊員中39歳と最年長で、登頂体勢に入るまで常にトップで活躍してきた自分が第1次アタックメンバーに選ばれなかったこと、そのチームをバラバラにされたことの抵抗だったと思います。僕たちにとって森田さんという登山家は神様みたいな存在でした。そういえば、湯浅先生とブロード・ピークのベースキャンプに入って間もなく、K2登山隊のベースキャンプに一緒に訪問するとき、氷河のモレーンに迎えに来てくれた人が森田さんでした。二人が氷河の中央の高い所で抱き合っている光景に涙したことを思い出しました。森田さんはグランドジョラス北壁で生涯を閉じられましたが、森田さんの山に挑み続けた孤高を綴った「狼は帰らず」という本が山と渓谷社のクラシックスから発売されています。これも読んでみてください。税込¥1680です。
K2エピソード その5
7月の後半、K2隊は第5キャンプ(7940m)への荷上げ活動の終盤を迎え、僕たちは第3キャンプへのルート工作が完成した頃、悪天候の周期に入りました。第2キャンプでやるせない時を過ごすはめになり、退屈しのぎにベースキャンプと、しりとり歌合戦を始めました。僕たちの第2キャンプは尾崎隆先輩(ブロード・ピーク登頂を始めに8000m峰6座登頂、現在ガイド業)、浜谷君、僕の3名。動くジュークボックスの異名をとる僕たちの圧勝でしたが、それでも暇が潰れず尾崎さんがディスクジョッキーをし始め、ドイツ語講座まで始まりました。「今日は、僕は少年ですという簡単な構文をやってみましょう。それではみなさん、イッヒ・ガンバルト・デル・ウンチ。はいリピート」といった具合で大爆笑!、受けてました。すると、「こちらは広島市民球場から、広島対巨人の15回戦を実況いたします。1回の表〜」、あれ〜?うちのチームに広島ファンていたっけ?めちゃ慣れた実況中継・・・すると尾崎さんが「ところで、あんた誰〜?」、「は〜いK2登山隊の広島三朗で〜す。ディスクジョッキーおもしろかった。お返しに野球中継をと思って・・」K2隊の第4キャンプとは筒抜けだったのでした。「あ〜はずかしいドイツ語講座やってしまったぁ〜」と尾崎さん。この広島さん第2次アタック隊でみごと登頂、帰国後「K2登頂 幸運と友情の山」(実業之日本社)を出版されました。広島さん1997年カラコルムのスキルブルム峰(7360m)登頂後(隊長として)、ベースキャンプでものすごくでかい氷河の崩落による雪崩に巻き込まれ生涯を閉じられてしまいました。
K2エピソード その4
K2のベースキャンプは「なんでも揃った食料品店」と紹介しました。それには根拠があって、当時、僕と浜谷光安君(現在、四日市の登山専門店シャモニの代表)は、登山隊の撮影を担当するチーム(確か「北斗プロダクション」だったかな?)の出発前の梱包を手伝いに行っていました。ダイエーさんが食料のスポンサーだったと思いますが、すごい食材と量でした。余ったうまそうな缶詰めを僕たちのブロード・ピーク隊にも分けてもらって、意気揚々名古屋に帰って隊長の湯浅先生に「どうだ」と言わんばかりに報告したら、「バカヤロー、こんな重いものベースキャンプまで送るのにいくらかかると思ってるんだ」と怒られ、しょんぼり。怒鳴ったほうは、憶えていませんよね〜。ほんとこれなら何日でも暮らせるという食材、量でした。K2の隊貨は総重量約15トン、僕たちは2トンでしたからね。
K2エピソード その3
7月中旬、K2隊の重廣恒夫さんが、休養日に僕たちのベースキャンプを訪れました。湯浅道男先生は73年のRCCUエヴェレスト南西壁の登攀隊長を務められていて、重広さんも登攀隊員でした。ブロード・ピーク隊先輩の、桜井洋介さん、本郷三好さんもエヴェレストの隊員でしたので、久しぶりのヒマラヤ氷河での再会が、とても楽しそうでした。K2ベースキャンプは「何でも揃った食料品店」が自慢でした。そこで生活していた重広さんが僕たちのベースキャンプで「これりゃ、うまい」といって満足気に食べてたものが、「こふきいも」。スカルドで、「じゃがいもなら痛まないんじゃない」と20キロほど買ったのをゆでてマヨネーズ+一味をつけた単純もの。僕はこのお返しにと、ロングピースという銘柄のタバコをいただきに、K2ベースキャンプを訪問しました。この頃はみんな喫煙してました。たばこ吸ってるぐらいで高所で動けないようでどうするんだ!っていうことでしょう(今は絶対吸いません)。この重廣さん、光文社新書からご自身の豊富な高所登山体験をもとに「エヴェレストから百名山へ」副題ヒマラヤから教わったこと、という本を出版されています。機会があったら読んでみてください。¥820税別です。
K2エピソード その2
K2を始めとするカラコルムの8000m峰が連立するバルトロ氷河へは、スカルドという街から始まります。ベースキャンプまで約180キロ、16〜18日間のキャラバンです。K2登山隊は、僕たちよりはるかに早くベースキャンプ入りをしていました。僕たちもバルトロ氷河に入り、いよいよベースキャンプまで1日と迫った日、K2登山隊の総指揮を務めていらっしゃった吉沢一郎氏(当時73歳)がベースキャンプから帰られるのを、コンコルディア(地名です)でお会いしようと、ゴレポロ(地名です)をうす暗うちに湯浅道男先生(愛知学院大ブロード・ピーク隊の隊長でK2登山隊の実行委員長も務められていた、僕のお師匠さんです)と辻美行先輩(ブロード・ピーク登頂者、1989年には僕とシシャパンマに登頂しました)と3名でスタートしました。少しでも早くと、広いバルトロ氷河の中央をとっている通常ルートを反れ、氷河の右岸をルートに取りました。結果は氷河が悪く時間がかかってしまい、吉沢さんとも会えず、後から出発した本隊にも追いつかれ、骨折れ損でした。「急がば回れ」ですよ。それにしても、当時のバルトロ街道を、73歳の年齢でベースキャンプを訪れ激励して帰るなんて、すごい力ですよ。K2隊は僕たちがベースキャンプを建設した7月上旬には、すでに6860mの第3キャンプが出来上がっていました。
K2エピソード その1
K2(8611m)登山隊(1977年)の僕の知っているエピソードを50周年にちなんで、ぼちぼち書いてみようと思います。今の「穂高」は先代の石川富康さんから僕が引き継がさせていただいて3年過ぎましたが、先代のお店に勤められていた先輩(仕事ではご一緒したことはありませんが)に馬場口隆一氏というアルピニストがいらっしゃいました。K2登山隊の試登隊の副隊長も務められ、本隊でも第1次登頂隊員に選ばれ、アタッカーの本命でした。1次アタックは悪天による失敗に終わり、馬場口さん(敬称略)の登頂の機会は二度と訪れませんでした。そのくやしい想いを翌年ガッシャーブルムX峰に求め、みごとに登頂するも、頂上付近のクレバスに転落し、そこに眠ったままとなりました。K2初登頂から50周年という記事からまず、馬場口さんを思い出し瞑想。センチメンタルなエピソードその1でした。お盆が近いですからね〜!
2004年8月8日(日)
K2峰 初登頂から半世紀
今年は、世界第2の高峰、K2(8611m)が、イタリア隊に初登攀されてから半世紀、50年過ぎたアニバーサリーイヤーです。日本人初登攀は、初登から23年過ぎた1977年の今日、8月8日、日本山岳協会隊の中村省爾、重廣恒夫、高塚武由氏によって成し遂げられました(登山隊の組織は総勢39名)、これ第2登です。8130mの第6キャンプを出発して第5キャンプに帰還するまで20時間にも及ぶ死闘でした。頂上直下では、中村さんがクレバスに3m程転落し、重広さんと高塚さんの持ち合わせているすべての紐を繋いで救出して頂上へ進むというドラマを乗り越えて!僕はK2のすぐ隣にあるブロード・ピークに愛知学院大隊の一員として初めての海外登山の経験をさせてもらっていましたが、K2登山隊の隊員の諸先輩方は、8000m近い第5キャンプへの荷上げを無酸素で20kg以上背負って最低4〜5回行っていましたからほんとうに強かったです。。高所生理学、装備の軽量化(特に高所では酸素ボンベ)が進んだ現在高所登山から視ると「何と、不合理な」ということでしょうが、同じ人間同士の行動かと思うと、尊敬の念に値します。名古屋山岳会から参加されていた、宇津孝男さんは、第6キャンプに荷上げに行き、風雪でルートを見失って、このまま動き続けるよりは、安全な場所でビバークと考え8000mの高さで無酸素で一夜を過ごしました。一時は大変な遭難騒ぎになりましたが、翌日何もなかったかのように第4キャンプに降りて来られました。「むちゃくちゃ」だよと批判される行為なのでしょうが、これも強さでしょう。まだまだ、諸先輩方の「へ〜、すっごいな!」という行動を多々見せつけられました。そうそう、乗鞍の手づくり石窯焼きパンで有名な?ル・コパンのオーナー林原隆二さん(通称リンゲンさん)も、K2登山隊の隊員でした。近くに行かれたらぜひ寄って食べてみてください。